読書休憩

資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 著者:マイケルハート/ポールメイソン/マルクスガブリエル 編集:斎藤孝平
ポストキャピタリズム 著者:ポール・メイソン
生きるということ 著者:エーリッヒ・フロム
限界費用ゼロ社会 著者:ジェレミー・リフキン
と、一連の流れのように読み終えた

興味深く面白い内容だった
自分がどのような価値観によって形作られてきたかを探る手がかりとなった

ジェレミー・レフキンは
「今日、私たちが考えているような資本主義は18世紀後期に起こり始める」
と言う。
それは、蒸気の動力が導入されると共に始まった。
1796年 ジェイムズ・ワットは、石炭を燃料とする近代的な蒸気機関を発明した。
これが第一次産業の始まりであり、資本主義の起こりとなる。

この技術を真っ先に採用したのが綿織物工業だった。
石炭を燃料とする蒸気のテクノロジーは、蒸気印刷機と蒸気機関車という、新たなコミュニケーション/エネルギー/輸送マトリックスを生み出した。

コミュニケーションインフラ、エネルギーインフラ、輸送インフラ
この3要素が社会経済の基盤をなし、骨子を形成すると言う認識のようだ。

蒸気機関が促進する第一次産業革命に伴い、近代的株式会社が発足した。
なぜなら、アメリカの端から端まで蒸気機関車が走り出した社会、
これを可能とする交通インフラに出資するには、
近代的な株式会社という全く新しい種類のビジネスモデルが必要となったから。
そして、実質的に鉄道会社は、近代的な資本主義の事業会社の第一号となった。

リフキンの考察以前は、東インド会社が世界で最初の株式会社だと認識していた。
しかし、イギリス東インド会社もオランダ東インド会社もどちらも短期的なものであった。

資本主義経済の特徴である垂直統合型の大企業の経営自体は、
中央集中化されたトップダウンの指揮・統制メカニズムによって効率よく遂行され、
企業業務のあらゆる面で合理化が求められた。
マックスヴェーバーによれば、理想的な資本主義企業は、一つ屋根の下で事業活動のあらゆる面を合理化する官僚制組織であるとした。
それは社会主義経済でも中央集中化・階層制の指揮・統制メカニズムは同様であるとする。

資本主義、社会主義問わず、
中央集中化、官僚制的指揮・統制メカニズムであった。

蒸気を動力源とする高速で安価な印刷は、ヨーロッパとアメリカ全土で大衆に識字能力をもたらす運動を促進した。
工業化された都市では公立学校制度が確立され、義務教育体制が敷かれた。

垂直統合型企業は19世紀の最後の25年間で軌道に乗り、20世紀全般を通してビジネスモデルの主流となった。
まさにこれまでの社会のレールであると思う。

19世紀の最後の20年間に第一次産業革命が頂点を極めていたまさにその時期、
第二次産業革命がヨーロッパとアメリカで始まろうとしていた。
石油の発見と内燃機関の発明と電話の導入によって新しいコミュニケーション/エネルギー/輸送複合体が台頭した。
1876年 アレクサンダーグラハムベルは電話を発明。新しい石油、自動車、郊外経済と大量消費文化を管理する上で決定的要因となる
中世紀後期における純粋な市場交換経済が、19世紀中期までに資本主義経済に移行した

 第一次産業革命の3本柱が石炭、電信、鉄道
第二次産業革命では電気、電話、自動車

限界費用ゼロ社会には、これからの経済、
資本主義経済から、共有型経済(シェアリングエコノミー)への移行による社会で起こるであろう動きや、
垂直統合型の社会から、
水平分散型の社会への展望や期待、そしてうまく昇華するためのポイント等も書かれていた。

リフキンは、第三次産業革命を新ガンディー主義と親和性が高いと書いている。
希望に満ちた展望が書いてあった。
(ドイツではインダストリー4.0。日本ではソサエティー5.0と呼んでいる。数字が大きければ良いみたいな意地の張り合いに見える。まるでドラゴンボールの世界)

2015年刊行の本なので、既に古くなった情報もある。
しかし、その背景や文脈が知れたのは面白かった。
が、それ以上に資本主義とはなんぞや、現代の経済基盤についてのリフキンさんの考察が書いてあり非常に惹かれた。

人生いつでも学び直しができるな、と思う。

やはり、印象的だったのは、

”蒸気を動力源とする高速で安価な印刷は、ヨーロッパとアメリカ全土で大衆に識字能力をもたらす運動を促進した。
工業化された都市では公立学校制度が確立され、義務教育体制が敷かれた。”

という一節。
この学校を覆う価値観は今日まで続いていると私は感じているから、
それが改めて明文化されていると思ったから。
国を超えて、資本主義と産業革命は人の物語を変えた。

フロムの生きるということはジャンルとしては違うかもしれないけれど、
根底は繋がっている

次の本は、ちょっと休憩がてらに野口晴哉さんか、小農学会の機関紙にしようと思う。


資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐

マルクス・ガブリエル (著), マイケル・ハート (著), ポール・メイソン (著), 斎藤 幸平(編集)


ポストキャピタリズム 資本主義以後の世界

ポール・メイソン (著)

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生きるということ

エーリッヒ・フロム


限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭

ジェレミー・リフキン

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畏怖

田畑に精を出し始めてから自然の恵みに感謝とか祈りとかっていう言葉を自分なりに実感を持って使ようになって、
そして自分なりに使えているようになってきたと思っていたのだけれど、そうではなかったのかも。

神への畏れは意識したことがなかった。
そもそも神という存在自体を意識したことがないのだから。
自分が日々使う言葉で近しいものは自然だろうか。
稲が育つようにと手をかけ、しかしながら農業機械や農薬といった類は一切用いることなく、天候や稲の生育状態を気にはかけるけれど、執着はせず願望は手放し自然に委ねているつもりになっていた。
でも、農作業以外への自分の落ち度を考えたことはなかった。
あくまでも稲とその他の関係性だった。
主客非分離とかいっておきながら実際は自然科学的視点で対象として捉えていた。

天災とは今の言葉で言うと気候変動だろうか。
人類の落ち度への反省と対処としてSDGsなんてのがあるのだろうけど、そこに神への畏れは見て取れない。
マックスヴェーバーが脱魔術化と表現した社会の続きの物語なんだろうと思う。
自分が農作業を始めた主な動機は近代への疑問や、その疑問とする産業革命後の社会構造の上に成り立つ価値観の中で育ってきた自分自身への危機感だったりするのだから、縄文で言い表される根源や本質まで想いが充分に馳せられていなかったのも頷ける。
ちょっと田畑をやった程度で何かをわかったかのように勘違いしないよう戒めつつ、これからも農作業を続けていきたい。


以下、引用です

稲作というのは、せっかく手入れしても、自然災害が起きれば、それまでの苦労が水の泡。
だから、神頼みせざるをえなくなる。
それは、人間の願望にそった祈りにならざるを得ない。
縄文は、人間の願望以前に、神から与えられているもので糧を得ているという感覚があっただろうと思う。
だから、まず感謝。
そして、何か天災が起きたら、「神が怒っている、自分たちに何か落ち度があったのでは」と思う。
だから、祈りは、神への畏れが基本だったと思う

田植え3.0

昨日、田植えをしていて突如「あれ?こうかも」と今までとは違う植え方をしました。
すると、なんだかとてもしっくりきました。
植えられた稲も気持ち良さそう。
スポーン!と、苗代から出て大地に立ったような感じで、生き生きしている印象なんです。

2019年から時計回りで植えるようになり、それが個人的に田植え2.0
佐渡の車田植の逆回転のような感じです。

で、今回つかんだのが田植え3.0です。
ズボっと挿すというより、
ターン!と射るような感じ。

苗の成長が楽しみです

草刈りと私

草刈りは刈払機を使っています
地表10cmくらいの高さで刈っています
虫や背の低い植物の居場所を残すためです

殺虫剤を使わないので生物多様性は必須です
バランスを崩さないよう気を付けています。
除草剤も使わないので全てナイロンコードカッターでツルツルにする、なんてことはしません
そもそもナイロンコードカッターの使用も控えており、次の草刈りでは使わないでいようと考えています

グーグルアースで調べてみると、田畑は5反ほどの広さがあります。
刈払機の使用は止むを得ず
子供達がよくいる田畑なので、蛇の潜み場、マダニの住処を無くす意味もあります
草が茂っていては足場もわかりません
怪我を減らすための草刈りでもあります

たまにカエルや、羽化途中のトンボを切ってしまうことがあります
凹みます
頃合いを見て虫供養をしています
大袈裟な儀式ではなく、田畑横にあるおじぞうさんに手を合わす程度ですが。

例年より21日早いと聞いた梅雨入り
天気予報はあてにならない
いつもなら水不足で頭を悩ましていた時期、今年は水が入ってこないようにしている
稲はどちらにも対応できると思う

昨夜は豪雨だった
雨音が激しく、植えた苗や苗代は大丈夫かな?なんて思ったりした
そういうことを思う様になるなんて、それこそ思いもしなかった

実際に手足を動かして、身を粉にして、やっとわかった感謝の意味
生きるというより生かされている実感
苗代に水がたまると、苗の上の方に避難する虫たち
水がなければ雨が恋しく
日照量が少なければお日さんが恋しく
そうしなければ米が立派に育たない、などと色々理由を付けたがったのは経験が少なかったからだろう
思い通りにはいかないと手放せばなんと楽なことか
それでも稲は育つ
水量が少なくても育てばやれ畑苗代だSRI農法だと言いコントロールしたがるが
稲の方から種の方からちゃんと舵をとっている
野良仕事は子育ての良い練習になるなと毎年思う
当然そのままあてはまるわけないけれど
なぜなら思い通りにいくわけないのだから
大丈夫としっかりと信じ切ることが重要なんだろうな
子供以上に自分自身を

そういう学びや経験を学校でしてきただろうか
個人差はある
しかし、第二次産業革命に沿った教育観の中では後回しにされていたことは多数の人が指摘している
シュタイナー、モンテッソーリ、ペーターペーターゼン。教育者でなくてもフロム、ガンディー、松井浄蓮、無数にいる。
第三次産業革命についてジェレミーリフキンは新ガンディー主義と親和性が高いと書いている
そうであってほしいと願う
娘が授業の一部がつまらないと言うので、
なぜ?と聞くと
「待ってなくてはならないから」と
その間別のことしてたら?と言うと
「怒られるかもしれない」と返ってくる
この萎縮はなんだろう
友人のお母さんからも同じ危惧を聞いた
自分の小学生時代に感じていた空気も同じだった
時代は目まぐるしく変わっていくのに、相も変わらず覆っているものが変わっていないのだろうと思う
ゆえに常石小の取り組みには目を見張るものがある

第三次産業革命(日本は第四次と言っている)とそれに沿った新指導要領に期待を抱くのと同時に、
日本の根源を見つめ、問い直す、佐伯さんの新刊sacred world vol.2のような視点の重要性をあらためて思う

生え変わる物語

IoTインフラは、ガンディーの経済ビジョンを推進する手段を提供し、 これによってもたらされ、その中に組み込まれているガンディーによる善き経済の探究は、インドだけではなく、 公正で持続可能な未来を模索する世界中の新興国にとっても、 強力な新しい物語の役割を果たす

ガンディーによる善き経済とは?リフキンは、こう定義する。
”コミュニティの利益が個人の利益に優先する、道徳に適った経済”

自分は、富と徳の関係はもう見られなくなったんじゃないか、とおそらく子供の頃から思っていて、
二宮尊徳の教えも、ガンジーにおける糸車のように、
”中央集権化されたトップダウンの形で商業的営みを管理し、垂直統合した経済活動を行うのに有利に構成されている工業化時代”
を抜けて金融資本主義と新自由主義となった現代においては、いよいよ風前の灯のように感じていた。
にもかかわらず、メルケル首相を始めとした各国の首脳等に助言をしている立場の人が、
”ガンディーの理想の経済は、第三次産業革命やそれに付随する協働の時代と、驚くほどの哲学的類似性を有している”
なんて書くものだから、期待せずにはいられない。

その彼自身の哲学とは、
・自給自足のローカルコミュニティで非中央集中型の経済的生産を行うこと
・工業機械労働よりも手工業労働を追求すること
・経済生活を物質主義的追求ではなく道徳的・精神的探究として思い描くこと
これらを重視する。
ゲーム理論でみれば不利でしかなかった行動原理だと思うのだけれど、次代はゲーム理論も刷新される可能性が高いということか。

ガンディーは自らの経済ビジョンを”人々の自宅での大量生産”と言った。
後にE.F.シューマッハーは、”大量生産ではなく、大衆による生産”と要約した。
”仕事の元へ人々を連れてゆくのではなく、人々の元へ仕事を持ってくる”
ということ。これは働き方の変化、住む場所の変化を意味し、コロナ社会後に目立つ動きと重なる。
暮らし=大きな意味での経済の変化を想起する。
第三次産業革命の構成要素であるプロシューマー化とは、”ガンディーが予見していた、大衆による生産という概念に近い”
それはなぜか、ということがこの本には多数の例をとりあげ解説している。
こんなに読んでいてワクワクする本、知的好奇心をくすぐられる感覚は久しぶりで、
20歳前後の頃、立花隆さんの本を読み漁っていた頃の気持ちを思い出した。

”「市場における私利の自主的追求ではなく、共有されるコミュニティにおける各自の関係の最適化」という彼の幸福の概念は、協働の時代の特質である。”
協働の時代とは、第三次産業革命の時代を意味する。
そして、”ガンディーにしてみれば、幸福は個人の富を蓄積することではなく、思いやりと共感に満ちた人生を送ることに見出されるのだった。”
こんな夢物語、とこれまでの第一次・第二次産業革命時代では一笑と共に一蹴されていた。DMMFXは広告企業とともに揶揄し嘲笑っていた、それが共感される時代だった。

第三次産業革命とガンディー哲学との類似性を”新ガンディー主義”の世界と称し、
そのことについて”生活の質についての新しい夢を反映している。”書いている。
限界費用ゼロ社会を読んでいて感じる面白さ、第三次産業革命への期待の源泉を垣間見た気がする。

第七章は限界費用ゼロ社会における教育について
今も続く学校教育のメインストリームは、
”大量生産は、垂直統合型の企業と、経済力を一極集中させて市場を独占するという固有の傾向を伴う”
とい文脈上にあった。
それが、第三次産業革命後はどう変わるか。

”協働の時代には、学生は、知識とは仲間たちから成るコミュニティでシェアされる経験と考えるようになる”
という考察から始まり、これまた読み進めるのが楽しみ

https://amzn.to/3ntANhK”

若松英輔さんの「光であることば」を読んで

モンテッソーリやプラトンにとって教育とはその人自身を顕現させる営みだったと記してある。
シュタイナーは農作業を通じて学んでいく機会をエポック授業と名付けた。
教育者認定書など取得しなくとも、親という立場を離れた大人同士の試行錯誤からそのような場を築けないだろうか。
そんなことを思いながらの田畑を数年続け、そして訪れてくれる人の数が増えてきた。
今年から子供が入学と入園をし、私たち親の自由時間が増えるので、また一歩そこへと近づきたい。



”
”文字は目で見、声は耳で聞き、意味は脳で認知する。それがおよそ学校と呼ばれる場所の常識だった。
モンテッソーリやプラトンにとって教育とは、ある思想によって人間を作り変えることではなく、その人自身を顕現させる営みだった。
井筒俊彦は、声や文字である言葉とは異なる意味の顕れを、「コトバ」と書いた。究極のコトバはあらゆる言葉を包み込む沈黙である。
目で読み、手で書くことによって認知できる言葉があるように、「ふれる」ことによって感じ得るコトバがある。むしろ、人生の秘技は、しばしばコトバによってこそ語られる。”
”

https://shosetsumaru.tameshiyo.me/M202105HIKARI4

ミャンマー支援

ビルマ/ミャンマーの平穏を祈りながら2820人目の支援者になりました
 
娘や息子と同い年の子供まで犠牲になっています
政治的背景は何度読んでも頭に入ってきません


自分は「生きている」つもりになりがちだけれど実はそうではなく生かされているのだとあらためて思いながら、
そのことに感謝し、今年も田畑を一所懸命にやろう。
例えば草取りという作業を一つとってみても、毎年同じように繰り返すことができるありがたみを感じながら、必要なところは草をとる。子供と一緒に楽しみながら。


ミャンマーの多くの人たちだって、きっとそんな日常を過ごしていたのだろうと想像しながら、支援というと大袈裟なことを行いました


一刻も早く平穏な日々が戻ってきますように



(秀夫


https://readyfor.jp/projects/justmyanmar21

イマ、此処、強風なり

親以外に気を許すことができる大人がいる、というのは子供の成長にとても豊かな味わいを与えてくれるのだろうと思う。

雑魚釣りに行こうと誘ってくれた深見さんに連れられて、子供2人と延べ竿持って出かけました。
しかし、釣りはあまりの強風と寒さで即退散。

そのまま深見さんに目一杯遊んでもらった子供達。
おやつまでいただいて。
甘えられる大人が近くにいて良かったねと思う。
私たち親より物知りで、わからないことがあっても聞けば教えてもらえるし、それでいて子供目線で一緒に遊んでくれる。
とても恵まれていると思う。

学校生活には慣れると楽になるから早めに慣れると良いなと思うけど、
学校の価値観には慣れなくてもいいと思っているので、
視野を広げてくれる大人が身近にいて良かったねと思う。
自分が大人になった時に、同じことを見ず知らずの子にも与えられるようになるはずだから。

(秀夫